「穿つな」という発言はすでに何かを穿っている。
世の中を穿つ人がいる。それは右左思想強めの人やインターネットの猛者など様々。
別に穿つことは悪いことじゃない。『嘘松乙』や『ヤラセ乙』などは決して悪ではないかもしれない。事実そうやってやらせが発覚したりしている。
しかし、世の中を穿つことはそんなに重大なことなのだろうか。
インターネットの画像にある『みんなわかってて楽しんでんだよ』と言う画像は嫌いだが、別にある程度嘘でもいいんじゃないとは思っている。
確かに嘘松はキツいものがあるしそれがバズってるのもなんだかなぁと言う気分になるが、まぁそれ自体は自由だし悪じゃない。やらせに関しても、ヘイトが向いたり明らかに主張が強いものは嫌である。某ハウス事件のようなものみたいに。
しかし、ある程度の脚色と言うのはどうしても必要になってくる。全ての料理が化学調味料一切なしではあまりに味が薄い時があるからだ。時に味の素が必要な時もあるだろう。
それ自体は良いことなのでないか?それとも一切の味付けをしない素のままの料理だけがリアルなのだろうか?正直筆者にはわからない。一つ言えるのは調味料を全開にする(すなわち脚色しまくる嘘松ややらせ)と言うことは二郎に近いと言うことだろう。うまくても量が限られるという点で。
すでにまとまりきらなくなって破裂しそうだが強制的にまとめると、別にある程度の脚色ならいいんじゃないと筆者は思っている。
ここからが本題だ。
ここまでの文章、『穿ってる』よな。
思想強い左右に傾いてる人と同じだよね。意見を言うと言うことは何かしら、少なからず何かをうがっていると言うことになってしまうのだ。
散々穿ちを批判している人間すら何かを穿っている。実に皮肉なものだが面白い。
結局人間は傾いている生物なのだ。
なんか真面目すぎ文章になったのでモンハンの岩穿テツカブラを討伐してきます。